業とはどんなものですか

2011年11月6日、銀座ブロッサムにて長老の業についての説法があった。
業の話は難しい。この小さな頭では理解できないこと。 でも長老の説法を聞くことによってほんのちょっとでも理解が進むと思う。業の話はおもしろい、難しい。 知っておくべきものだと私は思う。
因果がわかると、つくづく自分の行動に気をつけるようになる。とても悪いことはできないよ。
もっと詳しい話をすると頭がおかしくなっちゃうから、このくらいにしておこう、って感じらしいけれど、頭がおかしくなるレベルの話も聞きたいなー でも やっぱりその前に智慧をつけないとだめだよね。
スライドで書かれていたことをここに記しておこう〜
考えても終わりがない4つのこと (人間の思考の範囲を超えている)
1 ブッダの領域は考えきれない。考えてはならない。考える人のこころは狂気になります。
2 禅定修行者の禅定の領域は考えきれない。考えてはならない。考える人のこころは狂気になります。
3 業と果報は考えても終わりがない。考える人のこころは狂気に陥ってしまいます。
4 世間の考察も思考し尽せるものではありません。思考する人のこころは狂気に陥ってしまいます。
肉体から心が離れる。肉体から離れる心というのはどう機能するのかはわからない。肉体から開放されるということは、時空関係を超えてしまう。認識で空間が消える。
仏教は宇宙論はやめたほうが良いという態度をとっている。考えてもわからない。拡大膨張しているかといっても、それを体感、j実感することはできない。ただ計算上の話でだけ。我々知ってる物質、経験できる物質というのは限られている。

命とは業のこと kammassakata
業を自己とすること、業自性
生命とは業で作られているのです。
命の材料は業ということです。
とういことは、物質的な身体も精神・こころも業という材料でできているということです。
自分というそのものが業なので、理解し切れないだけです。秘密・神秘はありません。
業ってはっきりあるんだけれども、知り得ない。隠れているかというとそういうわけじゃない。
隠れているわけじゃないが私たちにはわからない。
業は相続するもの kammadayada
業を相続する。
生まれる瞬間に業という生かされるエネルギーを相続して この世で生命が現れるのです。
したがって、他の生命に、自分の命、生き方、性格、能力、幸福、不幸などをそう簡単に管理すること、かえることなどはできません。
性格が悪いが不幸にならない人も、その反対もいるのです。
一般の人は、運命、定め、カルマなどの概念で、微妙に業のこの特色に気づいているのです。
業は起源 Kammayuni
yumiとは胎、子宮、生、起源、原因などの意味です。
業が生命を生み出すのだということです。
神という超越した存在が創造するのではないのです。
業が創造者です。
業とは自分そのものでもあるので、創造主にお願いして、特別にVIP扱いしてもらいたいと思っても無理です。
神学で世界の不公平の説明出来ないのは業ではなく、「神」を妄信しているからです。
業は親族 kammabandhu
生まれてきた人は、親族によって、守られ、育てられるのです。死ぬまで この絆は切れないのです。
自分が何ものになるかは殆ど業の働きによるものです。
生命は業によって、守られ育てられるのです。
どのようになるかは、殆ど業の働きによるものです。
業は頼り kamma patisarana
舞い上がっている時、足を引っ張るのも、困ったとき助けになるのも、自分自身の業の力です。
生命は業に存在しているのです。
業から開放されて、自由自在に生きることは不可能です。
陸上の生命は陸に頼る。水中の生命は水を拠り所にする。一切の生命は業を拠り所にしています。
業が差をつける
優れた生命になる、卑しい生命になるなどの生命の差異がそれぞれの業の働きなのです。
一個人が自分と他人と比較してみるのです。自分の幸不幸と人の幸不幸と比較するのです。それで差を感じるのです。
個人が納得いくかいくまいが、それに関係ないのです。
生命は本来平等ですが、決して同一にはならないのです。
Culakammavibhangasuttam, M.III,1
この世でまったく同じものはいない。ひとりひとりが違う。人と比較しなければ差を感じない。
個人が納得いくかいくまいが、それは関係ない。 この差異に怒って みんな平等でなければいけないという人々がいるが、それは成り立たない。
業と差別
Karma、Kammaという言葉は良く知られているのですが、だれもその意味を分かっているとは言えないのです。
人を差別するために、社会の不公平を認めるために、権力を誇示するために、業という概念に逃げる人もいます。
人は自分の過去の業を知らないので、その無知、弱みを商売のネタにして、過去の業を占う詐欺師たちも溢れています。
業は区別の説明となりますが、差別を正当化することはできません。

だれでも、無始なる過去から輪廻転生しているのです。
ですから、量的に言えば、皆、ほぼ同じ量の悪業も善業も背負っていると推測した方がベターです。
観覧車の上にいる人が、下にいる人を見下すことはできません。
皆同じ円を回っているだけです。
世を見渡すと無知な人に差別意識が生まれる。業を気にする人は皆、平等だと知って自分を戒めるのです。
業は「一切の生命は平等である。しかし、生命に個性があるので同一にはならない」というメッセージです。
なぜ世の中均等でないのか、なぜひとりひとり違うのか。たとえ一卵性双生児であっても、べつべつの生き方をするのか。それが業の説明となっている。差別思考はどこからでてくるのか。
我々が持っている業の量は皆同じ。生命を差別してはいけない。

業は絶対者ではない
今までの説明から業に敵うものはなにもないように見受けられます。
しかし、業は絶対的なものではありません。業も無常たる現象です。
業も因縁によって生じる現象です。他の因、他の条件でなくては業に結果を出すことも出来ません。
業論とは因果説の僅かな一部です。
人が病気になる原因を八つ示すところがあります。八番目は業です。すべてが業によるものではありません。
修行は業を理解するより、因縁を理解することに励むのです。
たとえどんな業があったとしても、それなりの条件がそろわないとどうにもならない。
美しい人と結婚する業があったとしても、若いときにはその気がなくて歳をとってしまえばチャンスがなくなってしまう。業そのものも無常だから使用期限があり、この有効期限を過ぎたら機能しない。
業によって病気になる時、薬は効かない。業が原因ならば業の機能を変える治療をしなければいけない。アトピーは業が関係してくることがある。アトピーを引き起こす業と反対の行為をすると業の効き目が消えてしまう。業の死ぬプログラムがある場合はどうにもならない。
生まれるプログラム、生かせるプログラム、死なせるプログラムという、業の3つの仕事がある。
しかし、業はそう思うほど権力者ではない。因果法則によって機能しなくてはいけない。業にも有効期限がある。
五つの自然法則
1自然、2種子、3業、4法、5心という法則があるという説明があります。
物事は変化して流れるパターンのことです。
業だけに、勝手に、独立して行動することはできません。
因果法則はそう簡単には変わらない。
種子とは、遺伝子のプログラム、法というのは一切は因縁の法則、無我であるということ。
心の法則もある。いきなり変えることはできない。業もまた法則。存在すべて、この5つの法則によって変化しているのであって、管理者はいない。あるのは法則のみ。地球は自転するが、自転させる誰かがいるというわけではない。
この誰かがいなかったらどうやって結果が得られるのか?という思考の人たちが真理を理解するのは百億年くらいかかるだろう。この人たちは見方が違う。

業の自然、種子、法、心の法則に従わなければいけない。かってに業だけが動くことはできない。
意志 cetana
業によって生まれても、生きる場合は「意志-cetana」 という判断が必要です。
意志も決して完全自由ということではないが、判断しなくてはなにもなりません。
ですから、業に完璧にすべてを決定することも、定めておくこともできません。運命はなりたちません。
個人が、cetanaという蛇をそうさしなくてはいけないのです。
たとえ業は善くなくても、舵を操作することで生きる道を変えられます。
自分もそれなりに行動しないと、意志がないと生命は成り立たない。
すべて決まっているわけではない。我々は意志で行動する。
私たちは業を気にする必要はない。なぜなら舵を管理しているのは自分自身だから。
業は絶対者みたいにすべてを支配しているが、意志がないとどうにもならない。
自分の意志でそっちの方向に働かないと何も起らない。

意志 Cetanaこそが業である、とブッダはいう。 意志は自分でなんとでもできる。
やるか、やめるか、自分で意志の管理はできる。意志そのものも業である。
行為としての業
今まで、結果としての業の説明でした。
起きた出来事、起きた結果はそのままほっとくしかないのです。
問題は次にどのように、意志という舵を操作して、前に進むのかということです。
意志によって新たな行為をすることを業といいます。
それは、行為なので、又、条件がそろったら果報になります。
「どのように生きるのか」ということは大事です。
果報はどうにもならない。行為の方に興味を持つべき。
起きたことは終わったんだから放って置く。もう生まれちゃったんだからね。
それからの行為に気をつければ良い。

起ってしまったことは仕方ない。慌てても仕方ない。何が起きても、さぁ次はどうしましょう、と冷静に対処する。、
悩んだり、落ち込んだりせずに、次のことを考える。
自分の意志で新たな行為をする。常に私たちは活発でなければいけない。微塵にも悩んではだめ。
落ち込み悩むことは悪行為。美しいことじゃない。やさしさではない。
だからいつでも、どうすればよいかを頭にいれてアクティブに行動しなければいけない。
いったん悪い結果になっても、アクティブになっていれば変わっていく。自分の意志で好転させていく。
どんな不幸も我々の意志次第で幸福の起爆剤にできることにできる。 逆もできる。


幸福か不幸かということは人間にとって関係ない。 それにひっかかると暗い。
幸福だと思うと傲慢になる。不幸だと思うとと怒りになって落ち込んで暗くなって、悪行為になる。
次へ次へと意志をもって 良い行為をすることを考える。どのように生きるのかということが大事。
なぜ生まれたのか?ではない。どのように生きるのかが大事。
もう逆戻りはできない。だったら、どのように生きるのか。
感覚と業
感覚の流れが生きることなのです。
感覚の停止は生命の死です。感覚が隙間なく変化することは、また法則です。ですから、この世で死んでも感覚が繋ぎますので再び生まれる羽目になるのです。
生死の流れが(或るいは感覚の流れ)、今も起きている。死後も続くのです。
苦、楽、不苦不楽という三種類の感覚を認識できます。
意志により起こす行為は苦の感覚を引き起こすならば、その果報として業が生じるのです。
楽、不苦不楽の場合も同様です。

具体的に言えば、他人を助けたり、悩みがなくすようにしてあげたりすることは、他人に「楽」の感覚を与えることです。
自分の意志が起こしたその行為は、自分に楽を与える力のある業になるのです。
1万寄付したら、10万寄付したら結果は?と気になりますが、答えはわかりません。
他にどの程度の幸福、楽、喜び、安心感を与えたのかで、結果は設定されます。
気持ちは数字で計算されません。
歩くということは 感覚を変化すること。坐っていると その感覚は苦で歩くということで歩く。歩くと感覚が変化する。私が行為すると、苦しみの感覚を引き起こす、それが悪行為に結びつく。苦しみの感覚になるから
楽の感覚が生まれる行為をすれば人間は好き。
人の悩みをなくしてあげる。苦しみの感覚を楽しみに変える。その果報として、自分も楽になる。自分の意志が起こした行為が自分に楽を与えた業を与える。一般人がそれを善行為という。仏教的にはあまりわからないが、楽の感覚を引き起こす行為というのは一応善行為とする。
相手に最大の苦しみを与える、悪行為をする。その結果、自分も苦の感覚を受ける。
業は弱いからいろいろ条件がそろうまで待っている。


愛着は計算できない。ものをあげるとき愛着があるが、1万円しかない人が1万円あげる場合と、3千万ある人が10万円あげる場合、愛着の大きさが違う。金額で判断はできない。
意志と感情
感情が意志に判断を促します。感情を参考にして判断します。
仏教が危険視するところです。(理性で判断すべきです。)
貪瞋癡は柱になる感情です。この衝動で起こす行為は、悪結果をもたらす業になります。
貪瞋癡を制御するために行う行為のみ善業になります。
仏教の道徳リストは貪瞋癡の制御を狙って説かれているのです。
貪瞋癡の根絶は究極の善であり、業から赤いほうされることでもあります。
判断するとき、いつでも感情を参考にするが、これがヤバイ。意志に気をつけなければいけない。
理性で判断していない。貪瞋癡で判断してしまうから悪行為になる。
貪瞋癡に従うのではなくて、それを抑える、気持ちを制御しようとして行動することが善行為となる。

貪瞋癡を根絶すれば業から自由になる。
悪業の果報から身を守る
日々大量に善行為になる業を貯めて行く。
善行為で忙しいので、果報としての過去の業に結果を出すチャンスがなくなります。
現在の善業の果報力もこころに溜まるので、過去の悪行為の順番が下がってしまうこともあり得ます。
怒り、欲、嫉妬、怨み、憎しみ、悩み、落ち込みなどの感情をなくしてみる。その妄想を止める。
悪の果報を露わにする意志が弱くなってしまう。

慈悲喜捨の念を頭に入れておく。
何が起きても慈悲の念をわすれないようにする。
一切の行為は自動的に善行為に変わってしまう。
大胆な過去の悪業でない限り、
過去の悪業の実るチャンスが失われる。

妄想をやめる。
妄想をやめる実践は最高の善行為です。


智恵を育てる。
ブッダの語られた真理を学ぶことで、理解することで先ずは理性。
心理に納得すると智慧が現れるようになります。
苦、無常、無我な話は智慧を引き起こすのです。
因縁を理解することも智慧といいます。
八正道の実践は智慧に達する方法です。
智慧が現れたら一切の執着がなくなります。
解脱に達することは業から完全に開放されることです。
人間は悪業で生まれることはない。良い業で生まれるのだが善業にも差がある。
毎日毎日良いこと、貪瞋癡と反対のことをやって善業をためていく。
不幸になる運命であったとしても、良いことをするのに忙しいと 悪い業がでてこない。待っているあいだに消えてしまうこともある。降りてくる悪業があっても、良いことにいそがしいと悪業から逃げられる。
良い業の果報の順番が先になって、悪い業の順番が後回しになる。そしてそのうち期限切れになってしまうことがある。そうすれば悪業はでてこない。
毎日明るく笑って、善業を積んでいくと、悪業が弱まってくる。順番が下がってくる。

慈悲喜捨でいると悪業の出番がなくなる。たとえ障害を持って生まれたとしても、慈悲喜捨でいると、身体が障害もっているから不幸になるはずだが、そのチャンスがない。それで普通に明るく生きていられる。
不幸を避けるからくりというのは慈悲喜捨の念。祈祷ではない。
過去の業の善業だけの結果を表すことになる。善行為だけどんどんでてくる。
慈悲喜捨の念は念じれば念じるほど過去の悪業に大きなダメージを与える。
結果だす順番となってもがたがたになってできない。過去の悪業を壊すこともできる。

妄想をするということは感情をかき回すこと。いわゆる悪、とんでもない悪です。
妄想を停止することが最高の善行為。
妄想を停止しようとする力は相当強い。今世で起る予定の悪結果は殆どなくなる
みんな 生まれたら不幸になるプログラムも幸せになるプログラムも入り混じってあるが、妄想をやめようとすると不幸になろうとするプログラムが実行不可能になる。意志がとても強くなる。
ヴィパッサナー冥想をやる人がよく言うこと、「なんか人生がよくなってる。なんかしらないけれど問題が消えている。どうしてだろう?」
まじめに実況中継していると、自分にふりかかる予定だった悪が実行不可能な状態になっている。
妄想をやめると 理性が現れる。理性は善。悪から離れて膳の流れにはいる。
妄想をやめる。
貪瞋癡で生きると悪業を積むこと。一日生きたら一日分の悪業、さらに生きたらさらに増える。
生きることはとんでもないことになる。妄想をやめると悪業を積み重ねることから方向転換して善業を重ねることになる。

世の中の学問を学んでも智慧は現われない。出てくるのは欲だけ。
智慧が現われてほしいのなら、仏陀がとかれた真理を学ぶこと。これは決定的なこと。
聖書を読んでも差別に悩まされる悪い人間になるだけ。人をころしてもかまわないという気分になる。
智慧があらわれるためには ブッダの教えを学ぶしかない。
ブッダの教えを考えて、あぁ分かった、そのとおりだと納得いくと 智慧が現われたということ。

業というのは善であろうが悪であろうがとんでもないもの。だからこれから逃げなければいけない。
逃げるためには智慧を開発しないといけない。智慧を開発すると生きて生きたいという執着がなくなる。
これがなくなったら業からの開放で解脱という。
動画配信されてる! ありがたいーー!!
2時間半ほどの説法だった。ひゃーなんともわかりやすい。長老の説明は本当にわかりやすくてためになる。

でもちゃんと深く理解するために、何度も繰り返し聞かないと私はだめなんだけどさー
こういう説法がきけて本当にありがたいな。

20111107

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