長老の鞭連打でバッサリスッキリハッキリ

冥想合宿中に長老に個人的に質問をすることができる。
10分程度で終わる人もいれば1時間ほど話している人もいた。
私は3日目と4日目、2度質問してみた。
なんだか超キンチョーし、だんだん声が震えてくる始末。
でもなんとか質問してみた。
明確な答
歩き冥想の時に身体がぐらつくのですが・・・と尋ねたら、「感覚に集中しなさい。ただ機械的に実況中継してたってバカみたいでしょ。感覚をもっと注意深く観察し実況中継しなさい。」とのお言葉。
座り冥想で雑念が消えたらふわふわした感覚になり、ここには自分しかいない、周りには誰もいないような妙な感覚になるのですが…というようなことを聞いたら、「何を見ても感じても、それをひたすら実況中継すれば良いんです。あわてず騒がず、見えるもの、感じるものをひたすら観察し実況中継する。見えたもの、感じたものに囚われて意味を勝手につけて妄想してしまうと頭がおかしい人になるんです。脳はそういうものをみせるんですよ。おかしなことにならないように、どんなことがあっても慌てず騒がずありのままを見て実況中継しなさい。」というようなことだった。
手を挙げると実況中継をしていると、手がどこにあるかわからなくなる、という人が某ラヴェンダー系オーラの友達に多いみたいだが、私もそういうことを感じたことがあるので聞いてみた。単に集中が途切れて実況中継をちゃんとしていないということだった。

そういえば私がそういう状態になったのは、余計な唯一最悪の心配事が出てきた時だったもんなぁ。実況中継やってるつもりでも、頭に引っかかることがあるから、ちゃんと集中できなかったのだろう。
一回目の質問後、言われたとおりにじっくり注意深く歩き冥想をやってみた。うーむ、どうかなぁ・・・と続けるうちに、あっ!右足がおろし終わる前に左足を上げてるということに気づく。こういうことかぁー 一つ一つの動作をちゃんと確認していなかったってことだ。それに気づいてからはぐらつかなくなった。

それにしても長老のアドバイスは明確というか、「あなた、右足を下ろしきらないうちに左足を上げ始めてるでしょうに」、とは言わず、感覚にもっと集中しろというアドバイスで本人に気づきを促すんだなー
バッサリ!
長老のアドバイスのおかげで歩き冥想がうまくいったことのお礼と、またちょっと気になることを聞いてみた。
脳がなぜいろいろなものを見せるのか?その妄想に囚われてしまうのは自我があるせいなのか?というようなことを聞いたら、やれやれという顔をする長老。そんなこと説明する価値もない、とバッサリ!
おっと やっべー!と思ったが、長老は次のようなことを話された。

脳がそういったものを見せるのは当たり前。今は手術中みたいなもの。手術している時はいろいろゴチャゴチャグチャグチャになって大変なんです。治療中だから、たとえば脳の言語をつかさどる神経に触れればしゃべったり、また他の神経にふれれば声が聞こえたり、動いたりするんです。それに囚われて「神の声がしたぞ」とかお告げがあったぞなどと頭のおかしい人達がすることですよ。そんなものに囚われず、ブッダの教えのとおりに冥想をすれば間違いはないのです。

そういう妄想に惑わされて、自分は凄いんだぞ、他の人とは違うんだ、などと思ってしまう人がたくさんいますよね。これは自我があるせいなんですか?と言うと、「そんなことは知ったことじゃない。あなた、そんな余計なことゴチャゴチャ気にしなくていいでしょ!しっかり集中して冥想しなさい!」とピシャリ!

そして長老の集中力の話となり、私が、「そういう集中力を身につけるには、弱い心を鍛える必要があるんですよね?」などというと、まったくあんたは・・・とまたカナーリ呆れた顔をされ「はぁーもう話にならんわ。当たり前のことをするだけでしょ!」とバッサリ!
仏教の教えを勉強をして自分が楽になったんですが、みんなもこういうのを知ったら楽になるのに。みんな仏教のこういった教えを知ったらいいのに。子供の頃から学ぶ機会があれば良いと思うんですが、というようなことを言ったら、もう呆れに呆れたというか、はぁーっと大きな溜息しつつ 「あなたはそんなこと気にしなくていいんですよ。この世の中がどれだけおかしいことになっているか知ってますか!こんなに頭のおかしな人ばかりなのに、よくこの社会が成り立っているなぁって感じなんですよ。」と長老。

中高生の頃にこういった教えを叩き込めば良いのだが、日本では宗教はいけないということでなかなかそういう教育ができないということらしい。しかしキリスト教は良いとされているというのにカナーリ納得いかない様子。ホント、まったくおかしな話だ。やはり西洋かぶれの日本人というかなんというか…
日本人の宗教心についてのアンケートがあって、あなたには信仰している宗教がありますか?という問いにNOと答えておきながら、初詣に行きますか?YES、七五三しますか?YES、お宮参りしますか?YES、などと答える人が75%いるそうだ。全く矛盾している。宗教行事をやっていながら、私は無宗教です、などと言っているのだから、日本人は何をしているのかわかっていない。長老はとても滑稽だと仰った。
お祭、行事をやるといえば人は集まるけれど、説法会をやるというと人は集まらない。なかなか難しいのだと長老。
さらに余計なことを…
「長老はちょっとみただけでその人の性格や考えなどがわかってしまうと仰っていますが、それはその人の何を見てらっしゃるのですか?」と聞くと、 もうなにをくだらないことを聞いてるんだ?!という顔をされたので、これまた予想はしていたもののヤッベーと思いつつ、「好奇心なんですがぁ…」と私。
「そんなことは動物、犬猫でもやってますよ!」とお寺に昔いたワンコを例にあげて話された。
そして「人を観る時は慈しみの心で観るのです。」というお言葉。 これがなんだか響いたなー

最後にはもう余計なことばかり時間の無駄、いいかげんにせんか!って感じだったんだが、なんかいろいろお話ができて、いろんな気づきが生まれたような気がする。今は直ぐわからないけど、時がくれば気づけるように良いエレメンタルくっつけられまくり、って感じ。おっとこんなワケワカメな神秘的なことを言うと もういい加減にしなさい!とピシャリ!バッサリ!やられそうだ。
帰りの特急列車で、途中から15人ほどの団体(40代〜50代)が乗ってきたんだが、それがワイワイキャァキャァ中学生だか女子高生のような騒ぎ様。いったいどうなっているのか?!会話まる聞こえでプププッと笑いつつも、ちょっとイラついていたのだが、長老との会話を思いおこし考えていたら、この人を観る時は慈しみの心で観るという言葉を思い出した。すると、こういったわけのわからない人達にも、こんな初歩的な道徳さえもなく生きているのは大変なんじゃないか?まぁこの人達もそれなりにちゃんと生きているのかもしれないが、いろいろと苦が多いんだろうなぁ。大変だなぁ・・・などと感じ、イラつきが消えた。

そういえば、あの人はどうか?と最初に観る時に、あいつは嫌な奴かもしれん!などとネガティブな気持ちで観ていたかもなぁ。慈しみの心で観たことなんてなかった。

自分に親切にしてくれる人に親切にするのは猿にでもできることだが、自分に攻撃的な人にも優しく親切にする、というのは難しいよなぁ…

慈悲の心
他の宗教についてバッサリ、いろいろ厳しくいう理由は、皆がそんなものに惑わされて欲しくないからだそうだ。
スリランカにいれば大長老として信心している人達の相談にのったり、生活も楽なんだが、そういう楽な環境よりも、日本という西洋かぶれして信仰心も失い、わけがわからなくなっているところで迷える衆生を導くという困難な道を選ばれたということらしい。
そういう話を聞いたり、いろいろ質問してピシャリやられているうち、なんか長老って、とてつもなく慈悲深くて大きな方なんだなーと実感した。
二度と生まれないことを目指す
安心してブッダの教えを学び、そのとおりに冥想していこう〜という決意が固まった。
このいい加減な私がエライことだ。我ながら驚愕〜!
このタイミングも素晴らしい。上に任せるってことはこういうことなのかなーと実感〜

やっぱり俗世間も良いじゃなーい、などとチラリと思ったりするのも事実だけど、やっぱり苦しいのはこれくらいで終わりたいし、もう二度と生まれたくないから精進しよう〜
でもやっぱり一番執着をどうにかせんといかんのはあの男…かも。いつまでも煩悩の泥沼ではまってたら駄目じゃんー
毎日の長老の法話も非常にためになった。
この 私が!私が!っていう自我バリバリの私が、自我なんてくだらない、そんなもん最初からないんだよ、って方向に向かおうとしているのにも驚愕〜!
ホント、トットとここらへんで地球学校は終わりにして次に行かせてくれぃ〜

20080604

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